【コラム】出来の悪い童話を信じている【the cabs】

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コラム
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ー6年前、一つの生物が心臓を動かすのを辞めたー

僕にとっては何だか出来の悪い童話のようで、悄然としてそこに立ちつくすしかなかった。

 

今回はアーティスト紹介記事ではない。ただの独り言だ。(と言っても少しは紹介しますね)

 

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the cabsとは

 

the cabs

  • 首藤義勝(Ba/Vo、KEYTALKも兼任しておりthe cabs解散の同年にメジャーデビュー)
  • 高橋國光(Gt/Cho、2014年12月よりソロプロジェクト「österreich」を始動)
  • 中村一太(Dr、2014年にplentyのDrとして正式加入、plenty解散後はドイツにて音楽活動中)

2006年に結成、いくつかのdemoを経て2011年4月、1st mini album 「一番はじめの出来事」、さらに同年12月、2nd mini album「回帰する呼吸」を発売。その後数々のイベントに参加し、2013年1月、初のフルレングスとなる1st full album「再生の風景」を発売、同時に本作を携えた全国ツアー「the cabs 1st full album 『再生の風景』release tour“楽園の君”」を開催することを発表した。

しかし同年2月27日、解散を発表。

the cabs、解散を発表-rockinon.com|https://rockinon.com/news/detail/78874

 

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the cabsが生み出す曲

キェルツェの螺旋/the cabs

 

anschluss/the cabs

 

彼らの音楽はいわゆる”マスロック”という部類の音楽で、複雑怪奇な変拍子や転調と純文学的な歌詞は聴者をthe cabsの世界観に否が応でも惹き込む魔力を持っている。

しかしながら音数の引き算にもかなり手が込んでいて聴者にとってはかなり難解な展開に持ち込むバンドサウンドも”the cabs”というバンドの要となっている。

目を背けたくなるほどの救いようのない世界は楽園のような美しい世界と紙一重である、と言わんばかりの骨太なベースと”爆撃機”とも称されるドラム、そして抒情的ながらもどこか陰のある流麗なアルペジオを奏でるギター、首藤氏の甘美な声色と國光氏のシャウト、すべてがギリギリのバランスを保って轟音や美旋律が極上のアンサンブルを奏でている。

 

僕が一番好きな曲は1stアルバムに収録されている再生の風景のラスト「すべて叫んだ」である。本当に小説のラストを読んでいる時の充実感と喪失感、カタルシスのような感覚に陥る。

僕がこの曲について語るとコラムではなくなる分量になる恐れがあるので今回は割愛させていただく。

the cabs結成初期に作られた曲で、Demo ver.を経て1st albumのラストを飾る一曲にまで深化した。

(余談だが5曲目の地図という曲がラスト曲になる候補もあったらしい)

 

ちなみにこの曲を聴きながら以下の國光氏のブログ記事を読んでくれると幸いだ。

マヨネーズ : only if you call me jonathan
 線路に飛び込む人を見た。 例えば「ホームに落ちた人を果敢に助ける勇気ある人々」の話は良く聞く。でもそれは当事者が他人同士であるから成し得る事じゃないか。事実、僕は何も出来なかった。ただそれが決まっていた事かの様に立ち尽くした。僕には彼女が視界から消え

 

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与えたもの、失ったもの

彼らが与えたもの、僕らが失ったもの。それは余りにも多く、名状し難いものばかりである。

自家撞着に陥るが言うならば、「the cabs」というアーティストの「音源」「ロゴステッカー」「楽園の君Tour 札幌公演のチケット」

数えきれないとは言えないが、思い出なども含めれば彼らが与えてくれたものはすべて手に入れたものでもあり、同時に失ったものでもあった。この相反する事象の差異を埋めてくれるものが今後出てくるであろうか。

 

いや、本当は既に出てきているのかもしれない。現に彼らは道は違えども音楽活動に勤しんで下さり、僕達に音楽を、暮らしを与えてくれている。

そして去年、高橋國光氏のソロプロジェクト「österreich(オストライヒ)」がある曲をリリースした。

楽園の君/österreich

 

österreich 『楽園の君』
高橋國光(ex. the cabs)のソロプロジェクト、österreich(オストライヒ)。「東京喰種トーキョーグール:re」、第2期EDテーマ「楽園の君」 2018.12.12out

 

なぜこのタイトルにしたのかは國光氏にしかわからない。彼自身の中にもこのタイトルにした明確な理由はないのかも。

しかし彼自身は”やっと何かに許された”ような情感になったのかな、という風に感じた。

 

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笑いあうだけで許されるような気がしていた?

the cabsの曲に「僕たちに明日はない」という曲がある。その歌詞では

“誰かのために生きてみたい、でも僕たちに明日はない”

という一節がある。これは國光氏の心情も表しているように聴こえてしまう。

彼のブログか何かで「誰かの為に自分が音楽/歌詞を書くは烏滸がましい」という風に言っていたのを覚えている(出典は忘れてしまったが。) 

これを踏まえての「楽園の君」を聴くと彼の中で確実に“何か”が変化しているのが明らかに汲み取れてしまう。彼の中に存在した大きな葛藤、苦しみが少しでも小さくなっていたらと願うばかりだ。

そして彼が心身を極限まで摩耗させて創り上げた風景を僕らは”楽園”として、今もなお輝き続けるだろう。

 

音楽を作る喜びも苦しみもわからぬ僕は未だ何かを求めてしまう。非常に贅沢であり、本当に烏滸がましいことではあるが、國光氏の音楽をずっと聴いていたいと思ってしまう。

 

人間はどうしても失ったものを美化しようとする傾向にあり、殊更間違っている思想ではない。しかし思い出補正の有無で音楽を議論するのは些か音楽を軽視しているのではないかと僕は思っている。

 

彼らの音楽は、僕にとって紡ごうことなく最高の、そしてどのアーティストよりも思い出深いものであるのは言うまでもないのだ。

 

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再生の風景

僕は結局、この出来の悪い童話を信じる他、為す術などないのだ。

 

与えてくれたものを失ったものとして考えるのは余りにも滑稽で、侮辱にすら感じてしまうほど愚かな行為かもしれない。

 

未来はわからないし答えも求めない、しかし何処かでこう問うてしまう自分がいる。

再生の風景はこんな僕を許してくれるのだろうか、と。

 

 

長文悪筆失礼致しました。

 

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追記

この記事を執筆しながら思ったのは、正直僕の言葉は余りにも陳腐で、無知の知とは正にこのことだと思った。僕は國光氏とは一切交流がないし、音楽やブログなどでの彼しか知らない。

しかし今回このような記事を執筆してしまった。いや、執筆する予定ではあったがここまで國光氏の話をするわけではなかった。でも執筆しているうちに、結果このような記事になった。

僕がこう思うだけで、ファンが全員思っているわけでは一切ないということだけはご了承願いたい。

では、また。(ほぼ推敲なしで書いたので誤字脱字などあると思います。申し訳ございません。)

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